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2013.03.26

「石町の時の鐘」が現存する「十思公園」

「かつて日本橋本石町にあった時の鐘は、東に500メートル離れた十思(じっし)公園内に移され、保存されています。「十思公園」って?「じゅうし」でなく、「じっし」と読むのは、江戸っ子訛りか?

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ここは、江戸時代、「小伝馬町牢屋敷」(牢獄)が置かれたところです。はじめ牢屋敷は常盤橋辺り(現在の千代田区大手町2丁目)にありましたが、慶長年間(1596~1615年)にこの地に移され、明治8年(1875年)に市ヶ谷囚獄が作られるまでの約270年間、最大の牢獄(広さ:約8840㎡=2677坪)で、周囲は練塀で囲まれ、さらに堀もありました。

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石町の鐘があった場所から、十思公園に向かう(時の鐘通り)途中に、素敵な建物があります。表記を見ると、区の複合施設「十思スクエア」とあります。

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十思スクエア

もとは、十思小学校だった建物です。平成2年(1990年)3月に廃校となり、改修されて、平成13年から東京都中央区の複合施設「十思スクエア」として使われるようになったとのこと。

十思小学校の開校は明治11年(1878年。創立は明治10年?)です。開校の際、当時、東京で実施されていた学区割の「第十四小区」にあたること、そこから、中国宋の時代の歴史書『資治通鑑』(しじつがん)にある、天子のわきまえなければならない十の戒め「十思之疏」(じっしのそ)を元に、十四を十思(じっし)に置き換え、名づけられました。

現在の建物は、関東大震災(1923年発生)後の昭和3年(1928年)、耐震・耐火性の高い鉄筋コンクリート造り3階建て校舎として建て替えられたもの(関東大震災復校小学校の1つ)で、20世紀初頭の表現主義建築の特徴を有しています。

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十思小学校の東隣にある公園も、小学校の名をとって「十思公園」と名付けられました。
この十思小学校(現・十思スクエア)、十思公園、道路を挟んである大安楽寺、身延山別院、およびその周辺のビルが小伝馬町の牢屋敷跡です。

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新潮社刊『江戸東京物語』によると、小伝馬町牢屋敷の廃止後、跡地は荒廃したままだった、公園が作られても、前が前だけに、不浄地として庶民は寄りつかなかったと記されています。

参考--十思之疎

①見可欲則思知足

②将興繕則思知止

③処高危則思謙降

④臨満盈則思ユウ損

⑤遇逸楽則思ソン節

⑥在宴安則思後患

⑦防壅敝則思延納

⑧疾讒邪則思正己

⑨行爵賞則思因喜而僣

⑩施刑罰則思因怒而濫

十思公園は吉田松陰・終焉の地

牢屋敷は牢獄で、処刑される場合は、小塚原とか鈴ヶ森に移されてからかと思っていましたが、牢屋敷内にも処刑場があり、ここで処刑された人もいます。その中でも有名なのが、吉田松陰でしょう。時の大老、井伊直弼による安政の大獄で吉田松陰・橋本左内・頼三樹三郎等50人余が投獄され、その多くが処刑されました。吉田松陰もこの地で斬首されたそうです。享年30(満29歳没)だから、若かった!

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十思公園に建つ碑には辞世の歌が記されています。 "身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂"

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