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アートは、人間を肯定するエネルギー。
アーティスト/竹中隆雄
竹中さんは、「アーティスト」という響きから想起される、過剰な自己顕示欲や社会からの逸脱をアイデンティティに据えるようなステレオタイプのイメージからはほど遠い人だ。人柄は温厚で、口調は丁寧、そのうえ腰も低い。そうした姿勢のまま、この世の中や人間をじっと観察している。絵を描くという行為を通して、今の社会がどう目に映るのか、じっくりとお話をうかがった。家に「絵を飾る効果」から「アートとは何か」ということまで、話題は尽きることなく広がった。
絵を飾る2つの機能。
家に絵を飾るとき、絵には大きく分けて2つの機能があると考えています。1つは、インテリアを延長する機能。もう1つは、日常とは違う視点や感覚を提示する機能です。インテリアに従属するアートとは、簡単に言えば、家具や雑貨と同じ領域です。絵は、建物のコンセプトに輪郭を与え、部屋の雰囲気を劇的に変えることができます。画廊の中には、「インテリアとしてのアート」を積極的にコーディネートするところもあります。Francfrancなどのインテリアショップで、量産品・既製品のアート作品を販売するのを見かけるようにもなりました。家具を買うような感覚でアートを入手可能な時代が訪れていると言えます。アートへの敷居を低くし、花を飾るか、絵を飾るか、といった選択肢でインテリアの1アイテムとして捉えられるようにするところは、とてもいい流れだと思います。私は、できるだけ「生活にアートがあるといいな」という感覚を広げたいと思っています。やはり、いい絵があることは暮らしを前向きにしますから。一方で、アートは投機対象やコレクターの顕示欲に利用される側面もあります。美術界のポジションづくりのためにプレゼンテーションで絵を語る作家も多いのですが、そのせいで「アートって難解だな」という乖離が起きているのは残念なところです。一般の人々にとっては、あまり気にしなくてよい雑音だと思います。住み手にセンスがあれば、雑誌の切り抜きを額装して壁に貼っても十分なのですから。
絵は、見えないエネルギーを発している。
もう1つの、日常とは違う感覚を提示する機能については、「絵から発する力」そのものが問われると思っています。私は自発的に描く以外に、施主やクライアントから絵を依頼される機会があるのですが、いつもポジティブなエネルギーを籠めることに特別な注意を払っています。描き手の気持ちが常に「前に向かっている」ことが最も大事だと感じているのです。今では画風やスキルといったこと以上に一番気をつけていることです。と言うのも、絵は目に見えないエネルギーを発していると感じているからです。絵を取り巻く“気”の力とでも言いますか、絵には描き手のエネルギーが付着しています。プラスのエネルギーであれば、絵の力をポジティブに日常に取り込むことができますが、逆に描き手のマイナスのエネルギーを取り込んでしまう危険性もあります。私は、他人の絵画を見て、何のエネルギーも感じない絵もあれば、強い生命力を感じる絵もあります。分かりやすい例では、ヴィンセント・ファン・ゴッホの絵は、色があんなに明るいのにしばらく見ているとエネルギーに押されて気持ちが悪くなってきます。逆に、翳った色彩の絵でも明るい希望を感じることもあります。自分の絵は、地味な佇まいで静かでもよいので、見る人に「前に向かっている」感じが伝わりたいと思って描いています。そのためにも、描き手には人間性を含め、ある程度のポジティブなエネルギーが要ると思います。そこには非常にこだわりがあります。
人間を肯定するアート。
私がクライアントからのご依頼で納品させていただいた絵画を例にご説明します。これは、現地を拝見し、一瞬で「この空間に“円”があるといいな」と閃きました。その円は点がたくさん集まった形で、関係者みなさんの力が結集するイメージでした。円のような輪ですので、玄関に置くことで「魔除け」のようなイメージもあり、人がつながっていく神話のようなイメージもあると考えました。手法としては「アクション・ペインティング」と呼ばれるものなのですが、キャンバスにシルバーでグラデーションの円を描き、そこに黒い絵の具を叩きつけるように投げつけました。荒々しい動的なエネルギーとともに、シンプルに色数を絞ったことで静けさが生まれ、非常に削ぎ落して抽象的な図像ながら、そこにあるエネルギーは定着できたように感じています。静的なモチーフと動的なモチーフ、光と闇、ポジティブとネガティブなど、相反する要素や矛盾するものを取り込みながら、人の邂逅と言いますか運命の出会いが起きていることを意識しながら、前に進んでいきたい気分で描きました。
少し話が逸れますが、人間がもし天国に住んだとすると1週間で飽きてしまうと思うのです。望んだ瞬間に願いが叶ってしまうのはつまらないですよね。しかし逆に、地獄にいても感受性を閉ざしてしまってつらいものです。私たちが生きる地球はその中間にあり、矛盾だらけの世界で、いじわるな人や狡猾な人がいたり、その逆に底抜けに優しい人や導いてくれる人もいたりする場所に人間は住んでいます。そして、お互いの魂が出会って旅をしながら生きていくのですね。だから面白いと思うのです。自分ではその実感を毎日リアルに感じながら生きています。私が絵画制作をするときに一心に考えるのは、そのことです。矛盾に満ちた地球に生きる「人間」という存在を肯定したい。生きることの喜びと自分が感じている世界をまるごと伝えたい。そう思っています。この絵画は、自分では少し難解な仕上がりになってしまったと思っていたのですが、意外といろいろな人から好評をいただいて少し驚いています。なかなか伝わらないだろうと思っていましたが、受け取ってもらえた手応えを感じます。
全員のエネルギーをお返しする。
この絵に関しては、描くスピードが大事だと思っていました。短い時間でエネルギーをぶつけることを意識しました。魚を捌いて寿司を握るように、握り直したり時間をかけるほど鮮度が落ちて不味くなるのですね。「生」の状態が定着する感じを狙いたかったのです。一般的にも、歳をとると仕上がりが早くなる傾向があるように思います。余計なものを削ぎ落したくなるのですね。自分もやはりそうです。昔はパソコンで絵を作ることが面白くて、徹底して時間をかけてこつこつと描いていたのですが、今はCG(コンピュータ・グラフィックス)では生気がないように見えて自分の中では面白みがなくなってきました。絵から“気”が出てこないんですね。今は、手描きのほうがエネルギーが出ると感じています。人からはみな“気”が出ています。今の物理学では説明しづらい概念かもしれないと思うのですが、現象としては確実にあると思います。人と人が出会う相乗効果のときには特に露わになるので、よいエネルギーを人に与えると増幅して自分に返ってきます。よい影響を及ぼし合うために他人に嫌な感情を与えることを避けるようになりました。この絵に関しては、そうして自分がいただいたエネルギーを相乗効果でお返しすることを強く意識しました。自分を消しながらも、建築に関わる人や施主さんなどの周りのエネルギーを使うイメージです。全員のエネルギーがそこに定着するようなフォーマットを探りたいと考えていました。
私は、絵を受け取った人が、その後ちょっと人生が良くなることを願って創作をしています。「いいことが起きてほしい」「そうなってほしい」という祈りのようなものですね。厳密な検証はできないのですが、商売が軌道に乗ったり、病気が良くなったり、という事例が自分の中にあり、絵には本来そういうパワーがあるのだと信じたいところがあります(笑)。古来からアートには呪術的な側面があったことは否めません。アートは、心理学や風水に近いのではないかと思います。本来は経済に直接貢献しなくていいはずのものです。
アートで、多様性を問いかける。
近年、私は歳をとるほどに、自己と他者の境界があやふやになってきているのを感じています。自分にダイブしても他者や世界を発見したりもしますし、他人を見てもそこに自分を発見したりします。だからあまり「自己表現」という感覚に捕われなくなりました。自己愛という意識も薄くなってきたかもしれません。それは、地元で消防団やボランティアなどをするうちに、だんだんとそういった感覚が根付いていったのだと思います。あまり「自分が自分が」という感じはなくなってくるのですね。その中でも、消せば消すほど「消せない自分」が見えてきたりもします。それでよいのだと思うようになりました。私には、絵を描くのがつらくなった時期がありました。CGを始めたころ、自分でプログラムを組んで描くことを先駆けてやっていました。今となっては普通のことなのですが、大手プログラム会社からオファーを受けて取り組んでいました。そのころ、他人から期待されて手描きが許されなくなり、自分が縛られてしまったのを感じていました。「自分の世界」に閉じ込められてしまったのですね。今はそれを乗り越えて、制約から解き放たれて自由に描く楽しさを取り戻しています。最近では、依頼をいただくことが増えて、喜んでくれる相手が目の前にいるというのも嬉しいことです。
アートは相手にプラスを与えなくてはダメなのですが、同時にアートはただのエンターテインメントでもダメだと思っています。他人が感じ得ないような感受性や思想を籠めなくてはやはり面白くなりません。アートはやはり根源的に多様性を問いかけなくてはいけないものだと思うのです。「こんなに人と違う」という表明であるべきです。また、形状を描きこみすぎた絵は、見ていて飽きやすいとも感じています。「こういう見方しか許さない」という作為は疲れるのです。そのため、自分の絵がだんだん抽象化しているということがあります。今は、それでたとえ平凡な絵柄が完成したとしても、じつはあまり気にならないです。それよりも、ポジティブなエネルギーが絵に定着しているか、自分という人間の純粋さのようなものを磨いて絵に出せているかということのほうがずっと大事です。そうして受け取った人の人生がプラスになるようなものが、私のめざすアートです。
竹中さんは、こちらが恐縮するほど謙虚な姿勢でお話に応えてくださった。その中で「自分は、道にいる人。」と語った言葉が、耳に残っている。自己と他者の境界があいまいになるというお話からも、夏目漱石で言うところの「則天去私」のような、何か大きなものと近接しようとする姿が垣間見えた。アートを通してどこへたどり着こうとしているのか、これから先も目が離せない。