2013.04.13
芝増上寺の名鐘
「芝切通しの時の鐘」は、ほど近い増上寺からの奏上という形を取り、増上寺の鐘(延宝元年=1673年)を造った際の余材で造られました(延宝2年=1674年)。では、増上寺の鐘は何のため?
◆寺院の鐘
一般に、寺院では、念仏などの修行をする「六時」(ろくじ)を知らせるために鐘を撞きました。「六時」とは以下の通りです。
晨朝(日の出。午前6時)
日中(真昼=正午。午前12時=午後0時)
日没(日の入り。午後6時)
初夜(午後8時)
中夜(午後12時=午前0時)
後夜(午前4時)
ただ、岡本綺堂の『風俗江戸物語』によると、芝増上寺の鐘が撞かれたのは、朝四つ(午前10時)と夕七つ(午後4時)の1日2回、と記されています。
◆増上寺
増上寺は、明徳4年(1393年)、今の紀尾井町辺りに開かれ、以来、浄土宗の、東国の要として発展してきた寺院です。秀吉によって東国に移された徳川家康が、天正18年(1590年)、徳川家の菩提寺として増上寺を選びました。なお、上野の寛永寺も、徳川家の菩提寺です。慶長3年(1598年)、現在の芝の地に移転。
江戸幕府の成立後、家康公の手厚い保護もあり、増上寺は隆盛に向かいます。家康は、自らの葬儀を増上寺で行うようにと遺言、元和2年(1616年)、増上寺で葬儀が執り行われました。増上寺には、2代秀忠公、6代家宣公、7代家継公、9代家重公、12代家慶公、14代家茂公の6人の将軍の墓所、それぞれの将軍の正室、側室の墓所が設けられています。
2013年3月に訪れたら、徳川家の菩提所が特別公開されていました。
ズラーッと墓石が列んでいます。
悲劇の皇女といわれた、皇女和宮の墓所もあります。明治時代になり、廃仏毀釈や土地の没収で敷地が10分の1程度に縮小されるなどして、増上寺は苦難の時代を迎えます。その後も火事や空襲などにも遭います。戦後になって、堂宇なども再建され、今日に至っています。
◆三解脱門
別名「三門」と呼ばれる、江戸時代初期の面影を残す建造物。元和8年(1622年)に建てられており、重要文化財に指定されています。
◆現存する名鐘
4代家綱公の意向で、7回の鋳造を経て、延宝元年(1674年)に完成した鐘は、江戸三代名鐘と言われ、東日本では最大級の大きさ。幸いにして、現存しており、境内の鐘撞堂に置かれています。
「江戸七分 ほどは聞こえる 芝の鐘」 「西国の 果てまで響く 芝の鐘」 対岸の木更津でも聞こえたと言われています。